『最終話+1+1』


 シンと静まり返ったバーのカウンターで、九鬼子はちいさくため息をついた。
 バーには九鬼子以外に客はなく、店内に流れるジャズとバーテンのグラスを磨くかすかな音だけが九鬼子の耳に滑り込んでいた。
 来ないかもしれない、とは最初から覚悟もしていた。
 グラスを傾けながら九鬼子はあの夢を思い出していた。
 いつ思い出しても、胸に甘い痛みを伴うあの夢を。
 黒い天使の羽に包まれた時の、あの高揚と幸せは忘れられない。
 しかし、一抹の不安をどうしても拭い去れない。
 あれは夢ではないと確信している。
 けれど、もし、あれが本当に夢だったら?
 いえ、夢でなくても、あたしはあの人に伝えたい事がある。

「ドライマティーニを」

 唐突な隣からの声に九鬼子はビクリと振り向いた。
 白いシャツに黒いスーツ。魔法使いもかくやという帽子に、闇に溶け込むかのような黒い瞳。
 薄い笑いを浮かべた口元のタバコを見て、九鬼子ははじめて懐かしいその匂いが辺りにただよっているのに気が付いた。

「どうした?」

 問い掛ける声に、ぼうっと魔実也を眺めていた九鬼子は、ようやく笑みを浮かべた。
 魔実也は帽子をカウンターに置くと、九鬼子の左隣に腰を下ろした。

「来てくれたんだ」
「来る気はなかったんだが、あそこまで懸命に呼ばれるとな」

 来る気がなかったとは、やはりあれは夢ではなかったのね。
 心でそう思いつつ、九鬼子はそう口にはしなかった。
 いや夢だろうとどうだろうと関係ない。あの情景はあたしの中で真実と受け止めているのだから。

「それにしても、結婚前夜の娘がバーで一人酒か。感心できんな」
「もう一人じゃないわ」
「夫になる男以外と飲むか。ますます感心できないね」
「もう、バカ。今夜は特別だもの」

 九鬼子は自分のカクテルグラスを持ち上げた。
 魔実也もグラスを合わせ上げた。
 チィンと澄んだ音色が響く。
 乾杯の後はしばらく無言の時間が過ぎた。
 九鬼子は何かを口にしようとするものの、切り出せずにまたチビチビとカクテルを舐める。
 そして、魔実也はこの空気を楽しんでいるようだった。
 二杯目のカクテルがカウンターに置かれて、ようやく九鬼子は口を開いた。

「あの、あたしさ・・・結婚するんだ」
「知ってるよ」
「うん。いや、そうじゃなくて・・・」

 カクテルグラスに視線を落としながら、九鬼子はつづける。

「あたし、子供の頃は何も持ってないと思ってた。失って悲しい物なんて何一つ無いって」
「・・・・・・」
「はやくはやく大人になって、強い自分を手に入れたいって思ってた。
今から考えると、大事なものって一杯持ってたんだけどさ。
やっぱ若かったから、そういうのが見えなかったのね」
「・・・・・・」

 涙声というわけではないが、ポツリポツリと話す九鬼子の声が湿っていく。
 気付いているのだろうが、魔実也は静かに九鬼子を見つめている。

「何かを得るのに何かを無くす事があるって、もう判っているのに。
教授と一緒になるのは・・・・・・あなたを失う事になるのね」
「だが、判っているはずだ」
「うん、判ってる。だからそのことが嬉しくても寂しいのよ」

 そう。あたしはあなたを何時までも愛しいと思うだろう。
 だけど、と九鬼子の心が続ける。
 あなたは、もう二度と私の前には現れないだろう。
 この先、どんな危機に落ちても魔実也は助けてくれない。
 それはこの世のどんな事よりも確実だと九鬼子には思えた。
 あたしが教授を愛したから、教授をかけがえの無い存在として受け入れたから。
 これからは教授やみんなが、私を支えてくれるだろう。
 あなたの腕から抜け出し、長かった揺籃期を終えて、あたしは本当の大人の女になるのだ。

「寂しい事だけど」
「ん?」
「それでも、ありがとうって言いたかったの」

   *   *   *   *   *

「帰るか?」
「ええ。見送りはいらないわ」
「そうか」
「・・・さようなら」

 しばらく魔実也と視線を絡ませて、九鬼子は席を立った。
 魔実也はカウンター奥の酒壜たちに視線を向けた。
 九鬼子はバーテンを呼ぶと、1万円札を手渡した。

「あの人に好きなだけ飲ませて」

 それからすこし思案顔になると、九鬼子はバーテンにジンライムを注文した。
 バーテンより差し出されたジンライムを、魔実也とは逆の右隣のカウンターに置く。
 バーテンは九鬼子の行動を理解してはいなかったが、あえて問い質そうとはしなかった。
 魔実也は、もやは九鬼子がそこには居ないかのように泰然とタバコをくゆらせている。
 九鬼子はドアを開け、もう一度店内を見返した。
 やはり魔実也は九鬼子に背を向けたままだった。
 それでいい。別れは済んだのだ。
 ゆっくりとドアを閉める。

「ありがとうミゾロギ。・・・ゴメンな」

 ドアが閉まりきる前に、九鬼子はそう呟いていた。

   *   *   *   *   *

「こっちに来て飲んだらどうだ?」

 魔実也はドアには背を向けたまま問いかけた。
 九鬼子が今閉じたばかりのドアの前には、溝呂木が立っていた。

「どちらもお見通しですか」

 溝呂木はやれやれと肩をすくめると、ジンライムの置かれたカウンターについた。

「乾杯するかい?」
「何に対してですか?」
「九鬼子の結婚を祝して」
「お断りですね。本当に祝していない男二人が欺瞞に満ちた乾杯ですか。ぞっとしませんね」
「・・・・・・」
「僕を未練がましいと笑いますか?」
「笑いはしない」

 溝呂木はグラスを一息にあけた。

「今までで、最高のまずい酒ですね」
「せっかくの九鬼子からの酒なのにか」

 魔実也が意地悪げに笑う。

「だから、なおさらにですよ」

 苦々しげに笑うと、溝呂木はすぐに立ち上がった。

「帰るか?」
「ええ。見送りはいりませんよ」
「誰がするか」
「ごもっとも」

 溝呂木は口元に笑みを浮かべて慇懃無礼に深々とお辞儀をすると、闇に溶けるように姿を消した。

   *   *   *   *   *

「君、もう一杯頼む」

 一人になった魔実也がバーテンに注文する。
 バーテンはドライマティーニを魔実也に差し出すと、九鬼子とミゾロギの飲んだグラスを下げて、流しで洗いだした。

「さびしい?」

 ふいに少女の声がしたので、バーテンは慌てて顔を上げた。
 見ると、青年の背に中学生くらいの少女が抱きついていた。

「でも、これからはずっと一緒ね」
「女心はアテにならん」
「もう、バカ」

 バーテンは驚きのあまり、手にしたグラスを危うく落とす所だった。
 何故こんな時間に少女が?
 いつの間に店内に入ってきたのか?
 そういえば、そもそもこの客は何時店に来たのか?
 金髪の客もそうだ。何時の間にか現れ、何時の間にか消えていた。
 なぜ不思議と感じなかったのだ?
 様々な疑問がバーテンの心に浮かぶ。
 そして気が付いた。店内には誰も居なくなっていた。
 店内に流れるジャズだけが聞こえる。すべては幻だったかのごとく。
 いや、幻ではない。バーテンの視線が一点にそそがれる。
 カウンターの灰皿に、彼が今まで見たことのない銘柄のタバコが紫煙をくゆらせていた。

                               終


学校怪談勝手に最終回〜蒼牙さんばーじょんEND[20010227改訂版UP]


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