『夕焼け橋』(承前)

 気が付くと、目の前で八千華が喉を掻き切られて死んでいる。
 俺の手には血まみれのナイフ。
 階段の中ほどの踊り場で八千華が虚ろな瞳を俺に向けている。
 何時の間にか、すっかり日は暮れているようだ。
 ここは、どこだ?
 いや、そんな事はどうでもいい。早く逃げないと!
 俺は無我夢中でそこから逃げ出した。

 どこをどう走ったのか。
 何時の間にか、あの橋の上で俺はゼィゼィと息を荒げていた。
 なんとか落ち着いてから、手摺りに背中からもたれた。
 途端に押し寄せてくる強烈な後悔。
 バカな、なんてバカな事をしてしまったんだ。
 なぜ殺した。殺意は抱いたが、本当に殺るつもりは・・・
 いや、本当に殺るつもりだった。俺はバカだった。
 愚かな高揚に躍らされて、その後の事など何も考えていなかった。
 本当に俺はバカだった。
 八千華を殺して、俺は何を手に入れた?
 八千華は永遠に俺の手の届かなぬ所へ行ってしまった。
 代りに手に入れたのは、底知れぬ後悔だけじゃないか。
 俺は、俺は人を殺してしまったんだ。
 足元から、暗黒の世界へ引きずり込まれそうだ。
 自首・・・そうだ、自首しなければ。
 そう言えば、死体はどうしたっけ? もしかしたら見つからないかもしれない。
 いや、死体は見つかっても俺の仕業と判るとは限らない。
 だが、それでいいのか? お前の良心はそれを咎めないのか?
 このまま罪の意識を抱えたまま人生をすごすのか?
 体を反転させて、欄干に両肘をかける。
 黒々と暗い川面が気分を滅入らせる。
 目をつぶって一息つく。
 脳裏に薄ぼんやりと何かが見えた気がした。
 慌てて、目を開けた。何となく、周りを見るが誰もいない。
 もう一度、目をつぶる。今度ははっきり見えた。
 八千華だ、八千華が生気のない瞳で俺をみつめている。
 当然だ。八千華は俺を許しはしないだろう。
 恐怖でまばたきすら出来ない。急に橋の上という、この空間が恐ろしくなってきた。
 背後だけが恐ろしいだけじゃない。
 この暗闇の中、左右上下からも八千華がヒタヒタと纏わり憑いくるかのようだ。
 だけど、それでも自首するのは怖い。
 これから、人殺しの名を背負って、生きていくなんて出来ない。
 だが目をつぶれば、きっと八千華は俺を弾劾し続けるだろう。
 どうすればいい? どうすればいい? どうすれば!!
 誰か俺を助けてくれ!

「おい、大丈夫か?」
「うわっ!」
 肩に置かれた手を振り返って、俺は飛び退いてしまった。
 声をかけてきた女の顔が、血で真っ赤に染まっていたからだ。
「どうした?」
 女が怪訝そうな顔で俺に尋ねる。
 血・・・じゃない。俺はハッと気付いた。
 夜になっていたと思ったのに、辺りはまだ夕暮れだ。
 ライオンヘアーの女の顔は、血じゃなく夕陽に赤く染まっていただけだ。
「キャハハ。それでねえ〜」
 その声に、俺はビクリと振り返った。八千華が向うから橋を渡ってくる。
 バカな! 確かに殺してしまった筈なのに!
 俺は慌てて、ポケットからナイフを取り出す。
 手の中で鈍く光る、禍禍しいナイフ。だが、ナイフは曇りひとつなかった。
 俺は白昼夢をみてたのか?
 ふと気付くと、女が険しい顔で、俺のナイフを睨んでいる。
 俺はそんな視線を無視して、ナイフを思いっきり川へ投げ込んでやった。
 途端に、腰が抜けるかと思う程の安堵。
 よかった。八千華を殺してしまわなくて、本当によかった!
 安心したせいか、俺はようやく自分の胸が早鐘のようになっているのに気が付いた。
 欄干に体を預けてないと、膝をつきそうだ。
 だが何も心配いらない。そうだ、俺は人殺しじゃない。
 ようやく、何とか気分が落ち着いてきた。
 そして俺は下を向き、八千華と顔を合わさないようにすれ違った。

「あれ、九段先生じゃん。ヤッホー」
「立石に八千華、今帰りか?」
「はい、八千華が一人じゃ心細いだろうから」
「ストーカーなんて嫌い」
「ああ、それならもう問題ないだろう」
「え?」
「たっぷり、お灸を据えておいたからな」
「あ、それじゃあ何とかしたんですね」
「よかったぁ〜。アリガト先生」
「けど、それとトイレの件は別だからな、八千華」
「ゲッ!!」
「さてと。それじゃあ、じっくりと話を聞こうか」
「ひええぇぇ〜〜〜」
 夕日を受け、三人は笑いさざめきながら橋を後にした。


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このお話は,蒼牙さんが見た夢を元にした,宵闇通りBAR MOON CHILDの魚崎さんとの競作企画です。魚崎さんの作品は,この入り口からどうぞ。