カラリと静かに、九鬼子は保健室のドアを開けた。
部屋には、保健医の姿はなかった。
九鬼子はそろそろと中に進んで、衝立てから首を出してベッドを覗き込んだ。
二つ並んだベッドには双葉と八千華が眠っている。
「まだ寝てるのか」
ホームルームが終わって、すぐに保健室にやってきた九鬼子は肩を落とした。
双葉は3時限目、八千華は昼から、気分が悪いと保健室で寝込んでいるのだ。
九鬼子は二つのベッドの間に歩を進めて、二人を見下ろした。
二人の顔に苦しみの色はない。むしろ、安らかと言ってもいい。
だが、その表情に九鬼子は言い知れぬ不安を感じるのだった。
「・・・九段・・・先生」
突然、後ろから声を掛けられて、九鬼子はビクリと振り返った。
「なんだ、山岸か。って、お前、顔が真っ青だぞ!」
涼一はフラフラとよろけながら、保健室に入ってきた。
「・・先生・・僕・・・すごく気分が悪くて・・」
九鬼子は、ベッドは塞がっているので、取り敢えず保健医の椅子に涼一を座らせた。
「ええっと。・・・保健の先生はどこに行ったんだ!?」
九鬼子は机の上に何かメモでもないかと、ガサガサと物色する。
「もう! 行き先ぐらいメモしとけってんだ! 山岸、だいじょう・・!!」
悪態をついて、涼一へと振り返った九鬼子は息を呑んだ。
意識を失って椅子に座り込んでる涼一の口から、鮮やかな青い蝶が飛び出した所だった。
そして蝶は、換気用にかすかに開いていた窓ガラスから校舎の外へと飛び出していった。
「ま、待てっ!」
九鬼子も保健室の窓から、蝶を追って駆け出した。
「ふっふっふ〜」
東町第一中学校から少し離れた公園のベンチで、溝呂木は口元をニヤケさしていた。
溝呂木はソフトボール大の水晶球を両手でもてあそぶ。
水晶球を顔の高さにまで持ち上げて、ウットリと眺めてみたりする。
溝呂木のトレードマークとも言うべき巨大な瞳は、今は降ろした前髪に隠されている。
水晶球の中には、赤い蝶と黄色い蝶が二羽、羽を休めていた。
「あ、来た来た」
溝呂木が向けた視線の先には、フワフワと飛んでくる青い蝶の姿があった。
そのまま青い蝶は、溝呂木が差し出す水晶球の中に吸い込まれる。
「ふふふ。生徒の魂をここに閉じ込めておけば目を覚まさずに、クッキーは心配し通しで疲労困ぱいさ」
溝呂木の脳裏に妄想が膨れあがっていく。
寒風ふきすさぶ夜の街を九鬼子が気落ちした表情で歩いている。
「ああ、どうして三人とも目を覚まさないんだ」
「これ、そこのお方」
「え、アタシ?」
九鬼子を呼び止めたのは、頭からフードをスッポリとかぶった辻の占い師。
もちろん溝呂木である。
「この水晶をご覧なさい」
占い師は小さな机の上の水晶球を指差す。
「これは・・・蝶が三羽!」
「あなたが探している蝶は囚われていますよ」
「誰に!?」
「蝶を捉えているのは、貴方を愛する男の心の壁です。
貴方を愛するあまり、貴方の大切な蝶を自らに取込んでしまっています」
「ど、どうすれば?」
「彼に心を開きなさい。貴方が心を許せば許すほど壁は薄くなり、
蝶も貴方の手元に帰ってくるでしょう」
「ああ、そこまでアタシを愛しているなんて!
開く、心を開くわ! ううん、全てをあげたっていい!」
「なーんてね。本当はこの水晶、霊力で割れちゃうんだけどね」
アッチの世界へ逝っちゃてる溝呂木はデレデレと鼻の下を伸ばした。
「やっぱりテメーか、ミゾロギ!!」
九鬼子のロケットパンチが、溝呂木の顔面にクリティカルヒットする。
「ぐええぇ〜。あ、あれ、クッキーいつの間に?」
「いつの間にじゃねえ。この水晶割れば、三人は目を覚ますんだな?」
「あ、ボクちゃんの水晶球が。ドロボー」
「何か言ったか?」
グリグリと溝呂木を足蹴にする九鬼子。
「あーん。滅相も御座いません」
「さてと、霊力で割れるっていってたな」
九鬼子は水晶球を両手で包み込む。
「慎重にやらないと。おいっ、・・・って、逃げたな!」
九鬼子に足蹴にされていたはずの溝呂木は、いつの間にかその姿を消していた。
「まあ、いいか。どうせ邪魔になるだけだ」
辺りを確認してから、九鬼子は水晶球に注意を戻した。
九鬼子はゆっくり、じっくりと水晶球に霊圧をかけていった。
やがて小一時間ほどすると、ピシピシと音を立てて水晶球が粉々に砕け散った。
三羽の蝶はヒラヒラと東町中学校の方へと飛んでいった。
辺りはすっかりと暗くなっていた。
「ふぅー、疲れた。なんて頑丈だったんだ」
九鬼子は思わず膝をついていた。乱れた呼吸をゆっくりと整える。
刹那、九鬼子の背筋を強烈な悪寒が走り抜けていった。
慌てて、九鬼子は顔を上げた。周りには誰もいない。
だが、空気は重く、心なしか呼吸も苦しくなった気がした。
九鬼子は立ち上がろうと片膝を立てて、眉をひそめた。
「?」
何かが腕に当たったのだ。ついっと手をやって九鬼子は息を呑んだ。
壁だ、見えない壁がある。
そして直感的に悟った。自分が水晶球に閉じ込められている事に。
ふいに水晶球は九鬼子を閉じ込めたまま、フワリと1Mほど浮かび上がった。
息苦しさは、もう呼吸が困難な状態にまでなっていた。
九鬼子は水晶球の中から、ドンドンと手を振り上げていたが、やがてズルズルと崩れ落ちていった。
公園の敷地内のすこし離れた外灯の灯りを受けて、水晶球がぼんやりと光る。
その水晶球へと歩み寄る人影。
溝呂木は水晶球のそばまで来ると、左手で顔の半分を覆っていた前髪を上げた。
そこに現れた左眼には眼球は無かった。ただ漆黒の闇があった。
溝呂木が指を鳴らすと、水晶球はその大きさを急激に縮めながらスッポリと左眼へと収まった。
「ついに貴方をこの手にしましたよ、九鬼子さん」
何時の間にか溝呂木の腕には、眠っているのか力無い九鬼子の姿があった。
「どこまでも、どこまでも私を拒絶し続ける貴方の強さ。本当に、困ったいい女性だ」
正体も無くもたれ掛かる九鬼子の体を左手で支え、溝呂木は右手で九鬼子の顔をあげた。
「美しい」
九鬼子の凛とした瞳が見たいと思いつつ、それでも溝呂木はそう呟いていた。
「貴方の強い魂の彩りが損なわれても、なお貴方の美しさは揺るがない」
そして、その細身の体にしては軽々と九鬼子を両の手に抱きあげた。
「それがお前の本当の力か」
唐突に、溝呂木の背後より澄んだ声が響いた。しかし溝呂木に驚きの色はない。
ゆっくりと口に笑み浮かべて、溝呂木が振り返る。
薄闇の中に、微かな細身のシルエット。おそらくは鍔広の帽子。
そして、一点だけ赤く煙草の光。
「滑稽な道化の仮面の下に、そこまで禍禍しい力を隠していたか。九鬼子もとんだ奴に魅入られたな」
「貴方にも、いつか出会うと思っていましたよ」
影がゆっくり溝呂木へと近づいてくる。
「はじめまして、溝呂木君。そしてサヨナラだ」
「出来ますか、貴方に?」
その問いに、影が口にしていた煙草を地面に捨てる。
そして、吸い殻を軽く踏みにじる。口元に苦笑が浮かぶ。
「嫌な事を聞く」
そう言いながらも影が何を警戒するでもなく、溝呂木へと歩み寄る。
何を思うか溝呂木は動かない。影の伸ばした腕が九鬼子に届いた。
「ダンナ、勘弁してくださいって言ったのに」
「お前もホテル付きの運転手なら文句を言うな」
「そりゃそうですが。でも、ダンナ派手にやられましたね。服がかきザキだらけですぜ」
「相手が相手だ。こちらも無事という訳にはいくまい」
「しかし。お嬢さんも、あんなのに付き纏われるなんて」
「九鬼子はコイズミの件以来、無意識のうちに女としての魅力を押え込んじまった。
コイズミがなぜ汚職事件の罪を被ったのかも、ウスウスは気づいていたのかもしれん。
その押え込んだねじれの歪みが、逆にああいった連中を引き寄せている」
「ダンナはそこまで判ってて、放って置いたんですか」
「そんな目で俺を見るな。それに俺を非難しても始まらん。
どの道、九鬼子が自分でケリをつけなきゃならない問題だ。
・・・いや、どうかな?
本当は、九鬼子が誰の物にもならない事を望んでいるのかもな」
「・・・ダンナ」
「冗談だ」
・・・誰?
朦朧とする意識の中、九鬼子はうっすらと目を開けた。
霞む視界の中で、タクシーに乗ってるんだとわかった。
そして自分が誰かにもたれ掛かっているのに気が付いた。
・・・誰?
顔を上げようとするが、体は鉛のように重く、首を動かす事さえ出来ない。
そのわずかな身じろぎに気が付いたのか、九鬼子の肩を抱いていた手が更に九鬼子を引き寄せる。
薄れゆく意識の中で、何故か懐かしさを感じる匂いに安心しながらクキコは眠りに落ちていった。
目覚しの音に九鬼子は目を覚ました。一瞬の空白の後に、現状認識する。
ここは・・・私の部屋だ。いつ、帰ってきたんだっけ?
上半身だけを起こして、九鬼子は部屋を見回す。
昨日は・・・うっ!
突然、襲いかかった頭痛に額を押さえる九鬼子。
「さすがですね。ここまで力を打ち減らされるとは思いもしませんでしたよ。
今回は引きましょう。また力を貯えないといけない。
しばらくはクッキーと遊ぶ事にしますよ。また会える日を楽しみに・・・」
「ごめんこうむる」
え? なに、今の!?
・・・って、アレ? 今なにか思い出したような気がしたんだけど。
いや、そんな場合じゃない!
あいつら、あれからどうなったんだ?
九鬼子は、上着を引っ掴むと、バタバタと学校へ行くため部屋を飛び出した。
そして九鬼子は、普段吸う銘柄の物とは違う、部屋に漂う煙草の残り香に気付くことはなかった。