双葉はベッドの上で突っ伏して、枕を頭に被せていた。
しかし、必死に耳を塞いでも、階下から両親の争う声が聞こえてしまう。
更に力を込めて、耳を押え込む。目もこれ以上できない位ギュっとつぶる。
それでも、争う声は耳に滑り込み、脳裏には争う両親の姿がありありと浮かぶのだった。
そのまま、身を硬くしていた双葉だったが、いつしかまどろみの中へと沈んでいった。
何故か、唐突に目が覚めた。
窓から差しこむ月明りが、うす蒼く部屋の中を照らしている。
双葉は、ベットの上でぼんやりと天井を眺めた。
いつもと変らない天井。月明りで青白くぼうっと光る、見慣れた天井だ。
しかし、双葉は奇妙な違和感を感じていた。
何かしら、この感じ。
起き上がろうと片肘をついた時、双葉は原因に気が付いた。
それは、幽かに聞こえるすすり泣きだった。
細く、長く、しかし途切れることなく双葉の耳に忍びこんで来る。
誰かが泣いているの? 誰かしら、こんな時間に。もしかしてお母さん?
ミニコンポの時刻を見ようと首を回して、双葉は愕然とした。
部屋の中央で、誰かが泣き崩れている!
誰!?
とっさに身を起こし、シーツを体に引きつける。
一瞬、お母さんかと思ったが、すぐに違うとわかった。
長い髪や、全体の雰囲気から女だと直感する。
女の人だし、そんな酷い事はされまい、と思っても恐怖に体がすくむ。
女は、双葉が起きた事に気付いていないのか、それともどうでもいいのか、身じろぎ一つせず、ただ、切々とすすり泣きを続ける。
女の体は双葉の方を向いているが、首が大きく前に垂れ、さらに長い黒髪が顔を覆っていて、表情は見えない。
けれども、悲しみに打ち震えているのが伝わって来る。
すすり泣きは、もうはっきりと聞こえていた。
誰? どうしてここに? どうやって中に?
様々な疑問が双葉の心に浮かんで来る。
しかし、すすり泣きが耳に入る毎に、そんな疑問も消え失せていった。
不思議と恐怖も感じなくなった。
代りに、悲しみが双葉の胸を満たして行く。
しかも、双葉はその事を不思議とは思わなかった。
理性が影を潜め、感情が双葉を支配する。
悲しみを胸に抱いていた双葉は、不意に部屋に誰もいないのに気がついた。
今のは、いったい?
ぶり返しそうになる感情を懸命に押さえながら、平静を取り戻す。
あたし、寝ぼけていたのかしら?
双葉は、感情の起伏を押さえながらベットに腰掛けた。
頬杖をつき、ぼんやりと壁を眺める。
視界の隅で、ミニコンポの時刻が2:48と表示しているのが見えた。
疲れているのね、と自分に言い聞かせる。
苦笑を浮かべるが、泣き笑いのみっともない顔になっているのがなんとなく解った。
情けない。しっかりしなさい立石双葉!
奮い立たすように自分を叱責する。
顔を洗おうと思い、立ち上がった双葉はその場で硬直した。
自分の顔がみるみる青ざめていくのが、双葉は実感できた。
蒼い月明りの下でもはっきりと見える。
部屋の中央は涙のしずくでしっとりと濡れていた。
「で?」
職員室。灰皿に吸い殻を山と築いていた九鬼子が聞く。
双葉は昨夜あった事を、子細もらさず九鬼子に話した。
「それは、泣き女だな」
九鬼子が新たな煙草を咥えてつぶやいた。
「なきめ?」
煙草にちょっと非難の目を向けながら、双葉が聞き返す。
「ああ、泣く女って字だ。ただ泣くだけのたいして害の無い奴だ。が・・・」
何か引っかかる事があるのか、九鬼子の表情に疑問がよぎる。
「どうして、あたしの所に?」
「え?・・ああ。それは立石の心が悲しんで、泣いているからだ。その立石の心に引き寄せられたのさ」
「・・・そうですか・・・あたしが呼んだんですか・・・」
双葉がありがとうございました、と立ち上がって一礼する。
「あ、ちょっと待った」
「はい?」
「今日、立石の家に寄っていいか?」
「はい、来てもらえると助かります」
「・・・・?」
「えっとその。今日は、両親が実家で話し合いをするんで、あたし一人なんです」
「そうか。じゃ、泊まってやろうか?」
「はい!」
「プッハァーー!!」
風呂上りの下着だけのくつろいだ姿で、九鬼子が手にした缶ビールを飲み干す。
「先生。おつまみ、いりますか?」
「おお、ありがと・・・ん? これ、出来合いじゃなくて手作りか?」
「はい、先生がお風呂に入ってる間に作ってみました」
「どれどれ・・・んん、んまい! 立石、私の嫁に来るか?」
九鬼子が双葉の肩に手を回す。
「先生、そんなんじゃお嫁さんになれませんよ」
双葉はすこし頬を染めて、笑い答える。
「んぐぐぐぅ・・。美味いつまみだなあ、ハハハ」
やがて夜もふけ、一緒に寝ようと提案する九鬼子を、この前のイビキですっかり懲りた双葉が、何とか母親の寝室に放り込む。
双葉は同じ屋根の下に九鬼子がいる安心感から、すぐに安らかな寝息を立て始めた。
双葉は不意に目が覚めた。
窓から差しこむ月明りが、うす蒼く部屋の中を照らしている。
双葉は、ベットの上でぼんやりと天井を眺めた。
いつもと変らない天井。月明りで青白くぼうっと光る、見慣れた天井だ。
しかし、双葉はすぐに気が付いた。
幽かに、細く、長く、双葉の耳に忍びこんで来るすすり泣き。
双葉が視線を向けると、部屋の中央には昨日と同じく、身じろぎ一つせず、ただ切々とすすり泣きを続ける泣き女がいた。
大きく前に垂れた長い黒髪。その髪に隠れた顔を両手で覆っていて表情は見えない。
けれど、それでも悲しみに打ち震えているのが伝わって来る。
すすり泣きがはっきりと双葉の耳に届く。
そして、悲しみが双葉の胸を満たして行く。
ああ、何がそんなに悲しいの? もう泣かないで。どうして、こんなに胸が苦しいの?
あたし、あたしまで・・・何が何だか解らなくなる。
不意に、双葉の頬に熱い何かが伝わった。
それが自分の涙だと解った時、双葉の感情の堰が決壊した。
母さん・・・お父さん・・・あたし、どうしたら・・・
つらい、つらいの・・・あたし、あたしは・・・
自分でも気付かぬうちに双葉はベッドから降り、泣き女と同じように両手で顔を覆い、ポロポロと涙を流していた。
いつしか泣き女の姿が部屋から掻き消えていた。
それでも泣き続ける双葉の流した涙が両手を伝わり、床へと落ちる。
床は涙の雫を受けると、水面のように四方へ波紋を広げた。
そして、ゆっくりとゆっくりと双葉の体が床へと沈み始めた。
双葉は気付かない。ただ、ただ、心のうちから涙を零し続ける。
零れ落ちた涙はさらに波紋を広げ、双葉はすでに胸のあたりまで床に沈みこんでいた。
「立石! 悲しみに飲まれるな!!」
突然、ドアを蹴破って入ってきた九鬼子が叫んだ。
その力強い声に我にかえった双葉は、自分の胸元を見て悲鳴を上げた。
駆け寄る九鬼子の足が、半ば液状化した床に沈もうとする。
「くっ!」
それでも強引に双葉を引き上げると、九鬼子はベッドへと体を踊らせた。
背中を受け止める確かなベッドの弾力。
ほっと一息ついた九鬼子が、双葉を抱きながら反対側の壁に背を預ける。
部屋の中央に目をやると、床に広がる波紋の中心から、眉をひそめた泣き女が悲しげに双葉を見つめていた。
「この娘は、お前みたいに悲しみに沈ませはしない! 消えな!」
腕の中の確かな双葉を感じながら、九鬼子は決意を込めて叫ぶ。
泣き女は一瞬逡巡したが、九鬼子の気迫に打たれて、そのまま床へと沈んでいった。
泣き女が完全に沈み込むと、床は何事も無かったかのように本来の姿へと戻った。
部屋が平常に戻るのを見届けてから、九鬼子は胸に抱いた双葉を見下ろした。
双葉は、悲しみが心から消えないのか、それともショックからか、九鬼子の胸に顔を埋めながら、それでも震えるように泣いていた。
「立石。人は生きている限り、生きる痛みからも、悲しみからも逃れる事は出来ないんだ。
だから悲しみに飲まれるな。いろいろ辛い事だってあるけど、人生捨てたもんじゃないぞ。
立石の未来は立石が紡ぐんだ。だから、強くおなり」
優しく双葉の髪を撫でながら、九鬼子は子守り歌のようにささやくのだった。