夜霧の濃い晩だった。
ここは神田のバー“GREEN‘HILLS”。
時間は夜半もとうに回った頃合。
中では、目鼻立ちも涼しげな、だがどこか胡散臭さを背負った雰囲気の、
黒のスーツの美男子が独りカウンターで煙草をくゆらせている。
・・・いや、奥のテーブルに今一人、こんなバーには似つかわしくない、
楚々とした和服姿の美女が杯を傾けていた。
人の良さそうなマスターが、すまなそうに2人に話しかける。
「あいすみません。もうそろそろ閉店のお時間なのですが・・・。」
「おっとすまん。それじゃあそろそろ帰るとするか。」
男は傍らに置いておいた大きな黒の帽子をかぶると、腰をあげた。
「そちらの女性のお客様も、申し訳ございません。」
「あの、申し訳ありません?」
「はい、何でございましょう。」
「送っていってくださいませんこと?
このような時間までお世話になっておいて申し訳無いのですが・・・。」
「はぁ・・・それは構いませんが・・・お客様はどちらにお住まいで?」
「近所よ。手間はとらせませんわ。ただ夜道が怖いんですの。」
マスターは魂ごと魅入られたように女性の瞳から目を離さなかった。
「では閉店の・・・準備を・・致しますので・・・少々・・外で・・お待ち下さい・・・。」
店を閉めたマスターが、その美女と歩き始めたのを、
先ほどの黒衣の男が物陰から見るとは無しに見てい・・
そして気付かれぬよう後をつけて行った。
長いようで短いようで・・・不思議な時間感覚だった。
だが、煙草に火を点けている間に、
気付くと前の2人の姿は夜霧の中にまぎれ、消えていた。
「しまった!俺とした事が!」
黒衣の男は一人毒づくと、これまた霧の中に消えていった。
傍から見ると、愛し合う男と女が、
別れの接吻を交わしているように見えたかもしれない。
薄ぼんやりとしたガス燈の明かりの下、
階段下ではそんな光景が繰り広げられていた。
男は先ほどの店のマスター、女は先ほどの美女であった。
何時の間にかそんな深い間柄になったのであろうか?
だが、見よ、男の手は硬直し、
目は落ち窪み、顔からは生気が失われつつあった。
「そこまでだっ!!送られ狼!!」
「!!」
息を切らして現れたのは黒衣の男。
女は口惜しそうに唇を離すと、黒衣の男に向き直った。
マスターはどうっと倒れたが、
荒い息を吐いている所を見ると生きてはいるらしい。
今や女の顔は口は耳まで裂け、大きな2本の牙まで生えていた。
黒衣の男はその大きな帽子を取り、
胸の前にかざして二言、三言何かをつぶやくと、
すうっとその姿は消え始め、そこには帽子が浮いているだけとなった。
女はきょろきょろと辺りを見まわすが、
黒衣の男の姿は帽子諸共もう完全に消えていた。
『どこを見ている。こっちだ。』
闇の間からぬっと手が突き出されると、女の額に貼りつき、
ばしっと言う音と共に何か不思議な光りが放たれた。
「ぎゃあああああ。」
女は・・・いやその怪物は、
耳に残るイヤな叫び声を残してぐずぐずと崩れ去った。
「さて・・・男を背負うのは趣味に反するんだが・・・仕方あるまい。まだ勘定も払っていなかったしな。」
その夜、黒衣の男の下宿。
「アンタが男をつれこむなんて天変地異の前触れかしらね。」
下宿の娘、九段見亜子が毒づいた。
「うるさい。それより頼んだものの用意は出来ているんだろうな。」
「まかせなさい。焼酎とあぶったにんにくでしょ。」
黒衣の男はにんにくをコップに入れた焼酎に乱暴に漬け込むと、
箸の先でにんにくをつぶし始めた。
「おぇ・・・。」
見亜子は舌を出して成り行きを見守った。
すると黒衣の男はそれをマスターに乱暴に飲ませ始めた。
やがて・・・。
「げほっ・・・げほっ・・身体に・・・力が入らない・・・。」
「ようやく気がついたか。」
暫くたって、マスターは辺りをきょろきょろと見まわすと、
きょとんとした表情で、
「あの、こ、ここは?」
「ここは俺の下宿。アンタは命拾いした客ってところだ。」
「きゃ、客・・・そう、客。店を閉める前からの記憶が無い!!」
「そうだ。アンタの店に和装の女がいたろう。
あいつが俺が追ってた化け物さ。
夜中蛾の様に男を誘い、そいつの命を接吻で奪い取る。」
黒衣の男はかいつまんで先ほどの怪異の話をし、男の背中をさすってやると、
「これからは夜中独りでいる女の客には気をつけるこったな。
送り狼・送られ狼。」
見亜子は、
「アンタはどっちかと言うと送り狼だけどね。」
「何か言ったか?」
「い〜や何にも?」
「た、助けてくれてすまない。そ、そういやあんたの名は・・・?」
マスターがまだむせながら大儀そうに言うと、
黒衣の男は煙草に火をつけ、気持ち良さそうに煙を吐いて言った。
「夢幻魔実也」
「ただの女ったらしよ。」
見亜子がまぜっかえした。
(了)
written by ちゃいなタカシ