「夢幻魔実也の生年と母校に関する考察」


 高橋葉介によると、『夢幻紳士』には三つの異なった物語があるそうだ。第一は『マンガ少年』版で、「顔泥棒」「使い魔の壷」「青蛇夫人」「夢幻少女」の4作品のみがこれに属する。第二は『リュウ』版で、『リュウ』と『少年キャプテン』に連載された一連の作品群を含む。第三は「怪奇篇」で、この第三の夢幻魔実也は『夢幻外伝』にも登場し、『帝都物語』では狂言回しをつとめた。また今日でも『学校怪談』で活躍しつづけており、私のような新参者の葉介ファンにとっても馴染み深い存在だ。

 『夢幻紳士』には異なった物語が三つあり、そして三つ以上はないという前提に基づくと、『リュウ』版と怪奇篇のどちらに分類したらよいのか判断に困る作品がいくつか出てくる。すなわち「案山子亭」「亜里子の館」「脳交換クラブ」「人形地獄」の4作品である。「脳交換クラブ」は『リュウ』版に分類できるだろうというのが私見だが、「案山子亭」や「人形地獄」の魔実也は異能の持ち主であり、体力と気合で勝負しているようなところのある『リュウ』版の少年探偵とは明らかに異なる。さりとて『マンガ少年』版ではないのだから、これらの物語は怪奇篇に分類してしまうべきだろう。怪奇篇の夢幻の少年時代を明らかにしている点で重要な作品だといえる。

 「亜里子の館」はどうだろうか。作品の背景となっている年がはっきりしているという珍しい作品だ。物語の終盤で夢幻が亜里子の母親に手渡す新聞は一面でアムンセンの遭難を報じているが、ノビレ少将を救出しに北極へ赴いたアムンセンがスピッツベルゲンの付近で消息を絶ったのは1928年のことである。『リュウ』版では第三帝国がすでに成立しているのだから、「亜里子の館」は『リュウ』版ではなく怪奇篇に分類するべきだろう。「亜里子の館」の夢幻は見たところ15歳くらいだが、15歳の少年がスポーツカーを運転しているのは変だという指摘さえ無視してしまえば、怪奇篇の夢幻魔実也の生年は1913年ごろと推測できる。

 果たして夢幻は正規の教育をどれほど受けているのか。怪奇篇の夢幻は大学生だというのが当初の設定だったらしいので、彼は大卒だということにして話を進める。旧制中学の修業年限は5年なので、彼が中学を卒業したのは1930年のことだが、そののちに彼のとった進路として考えられるのは以下の二通りである。高等学校(この場合は第一高校)を経て帝国大学(この場合は東大)に進んだというのが第一の道。そして、高校に進まずに帝大以外の大学に入ったというのが第二の道である。帝大以外の大学に入るのに、高校を卒業している必要はなかったのだ。夢幻が大学を卒業したのは、彼が東大生だったとすれば1937年、それ以外の大学の学生だったとすれば1934年のことになる。

「最近、太陽系の一番外側で惑星が発見されましたね」「うむ、“冥王星”だろう」という会話が「冥王星」では交わされているが、米国の天文学者トンボーが冥王星を発見したのは1930年のことなので、彼は「死者の宴」「冥王星」ではまだ大学生だったわけだ。夢幻の通っている大学は当然ながら東京市内にあるのだろうが、彼は下町に下宿しているようだから、単純に考えると東大と早稲田は候補から外され、逆に慶応と明治は有力な候補になる。

 しかし、夢幻は「死者の宴」や「冥王星」では大学生だったと即断することは実はできない。中退の可能性もないわけではないが、すでに卒業していたという可能性をここでは問題にしたい。小学校と中学校でそれぞれ1回ずつ飛び級をすることが戦前の学制では可能だったので、夢幻は1932年に大学を卒業していたかもしれないのだ。飛び級を繰り返すような人間は一高を経て東大に入るのが当たり前だったのだが、東大には見向きもせずに周囲を仰天させるのも夢幻らしいだろう。ところで、飛び級を2回もして大学に入ったのであれば、夢幻はわずか15歳で大学生になったのだということになる。つまり夢幻は「人形地獄」や「案山子亭」ではすでに大学生だったのだ。

 大学を出てから引っ越したということも考えられるから、夢幻が下町の近くの大学に通っていたと考える必要はなくなる。それどころか、「人形地獄」を見る限りでは夢幻は下宿していないようなので、夢幻の母校が下町にある可能性の方がかえって低くなる。先程までとはまったく逆の結論だが、かくして早稲田が有力候補となってくる。もっとも、夢幻の実家が山の手にあったという保証はない。下町にあった可能性はさすがに低そうだが、東京市外にあったということも充分に考えられる。たとえば谷保村(現在の国立市)の付近にあったのだとすれば、夢幻の母校は東京商科大学(現在の一橋大)と考えるのが妥当だろう。一橋が実業界に強いというのは戦前からの伝統らしいので、「幽霊夫人」に登場した夢幻の先輩・楠本の羽振りのよさを考えると、これはこれでありうることだ。そして、確かに国立は23区(はじめは15区。1932年に35区となり、戦後になってから23区にまとめられた)から遠く隔たっているが、中央本線は夢幻の学生時代にはもう開通していたので、江戸川警部が彼を訪ねてくることもできたはずである。

 ただし私は早稲田説を採用したい。震災手形処理問題をめぐって1927年に金融恐慌が発生し、さらに1929年には世界恐慌が起きた。にもかかわらず、世間を吹き荒れる不景気風を感じさせないほどの活況を新宿の街は呈していたという。そのような場所が近くにあったからこそ、夢幻は蕩児となったのだろう。東大を蹴って早大に入り、二十歳になる前から新宿界隈で遊びまくっていたというのが夢幻魔実也の青春である──これは牽強付会の説というものだろうか?


written by 凡

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